徳川吉宗後の将軍と御三卿102
吉宗亡き後、江戸幕府の緊縮財政政策を止め、
重商主義政策を取り入れ、
(商人からも冥加金 ・運上金と云う租税徴収増狙い)
干拓等の公共投資政策を実践し、
江戸幕府の財政状況を好転させようとした田沼意次。
彼に関しましては、 「田沼意次はケインジアン」 で紹介しました。
彼の経済政策は画期的だったのですが、
新しい事を企図する方は、旧既得権益持ちの方々にとっては
甚だ目の上のたんこぶ、大迷惑な御仁になってしまいます。
突如襲ってくる自然の悪戯、新潟県中越沖地震感じの
浅間山大爆発 (1783年7月6日~)
天候不順による農作物不作の天明の大飢饉など
「自然の力」 が彼に味方せず、
又、10代将軍、徳川家治 (1736~1786) の他界に伴う、
権力闘争、派閥争いの煽りを受け、
嫉妬まみれの方々により、幕閣から追い落とされてしまいます。
(1786年8月) その翌年の7月、
彼の変わりに幕閣のリーダー (老中筆頭) になったお方が
寛政の改革と云う代物(しろもの)でメジャーな?松平定信。
吉宗 (1684~1751) | ⇒ | 家重 | (いえしげ) | (1711~1761) | 9代将軍 |
⇒ | 宗武 | (むねたけ) | (1715~1771) | 田安徳川家 | |
⇒ | 宗尹 | (むねただ) | (1721~1764) | 一橋徳川家 |
家重 | ⇒ | 家治 | (いえはる) | (1737~1761) | 10代将軍 | ⇒ | 家基 |
⇒ | 重好 | (しげよし) | (1745~1795) | 清水徳川家 | |||
宗武 | ⇒ | 治察 | (はるさと) | (1753~1774) | |||
⇒ | 定国 | 伊予松山藩主 | (1757~1804) | ||||
⇒ | 定信 | 陸奥白河藩主 | (1758~1829) | ||||
宗尹 | ⇒ | 治済 | (はるさだ) | (1751~1827) | 贈太政大臣 | ⇒ | 家斉 |
⇒ | 治国 | ||||||
⇒ | 斉隆 | ||||||
⇒ | 斉匡 | ||||||
⇒ | 斉敦 | ||||||
⇒ | 義居 | ||||||
⇒ | 重昌 | (しげまさ) | (1743~1758) | 越前福井藩主 | |||
⇒ | 重富 | (しげとみ) | (1748~1809) | 越前福井藩主 | ⇒ | 治好 | |
⇒ | 治之 | (はるゆき) | (1753~1781) | 筑前福岡藩主 |
家斉 | (いえなり) | (1773~1841) | 11代将軍 | ⇒ | 家慶 | 12代将軍 |
治国 | (はるくに) | (?~?) | ⇒ | 斉朝 | 尾張藩主 | |
斉隆 | (なりたか) | (1777~1795) | 筑前福岡藩主 | ⇒ | 斉清 | 筑前藩主 |
斉匡 | (なりまさ) | (1779~1848) | 田安徳川家 | ⇒ | 斉位 | 5代一橋家 |
斉敦 | (なりあつ) | (1780~1816) | 3代一橋家 | ⇒ | 斉礼 | 4代一橋家 |
義居 | (よしつえ) | (1785~1804) | 美濃高須藩主 |
ってな感じで、松平定信は、徳川吉宗のお孫さんになり
お爺さんが推進した重農主義に戻ってしまうのです。 続く。
盛夏の朝顔
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