江戸時代の鬼才 平賀源内 85
江戸時代中期に讃岐高松藩で出生した希代の天才、
平賀源内 (1728~1779)。 時代的背景も彼に味方。
時は、ラッキーにも紀伊藩出身で徳川家将軍になれた、
徳川吉宗の享保時代から、宝暦年間を挟み、
田沼意次が画期的な重商政策を試みた明和 ・安永時代。
新しい事にチャレンジ可能な土壌が整っていました。
とは云え、「天才」 は環境はどうあれ、
天才と回りの皆さんに称されるのは、日々
「閃 (ひらめ) き追求と飽くなき努力の積み重ね」 の結果。
とかく生存時よりも、死後に 「であった。」 になりますが、
(大概、生きている際は 「変わり者」 の呼び名)
誰しもこの称号を頂ける方にはなれません。
讃岐高松藩は桃山時代に、織田信雄の生母 「吉乃?」 の
お兄さん、生駒親正 (1526~1603) が秀吉より頂いた土地。
生駒家は江戸時代に入り、
徳川家光の外様大名排除政策の煽りを受け、
潰しにかけられます。
その後、御三家の水戸藩主、徳川頼房の長男、
松平頼重 (1622~1695) が藩主となり、
明治時代を迎える事になります。
二代目藩主は徳川 (水戸) 光圀 (水戸藩二代藩主) の息子、
松平頼常 (1652~1704) に。
(一方、水戸藩は松平頼重の息子、徳川綱條が継ぐ事に)
その様な土地柄で平賀源内は、この世に生を受けました。
この後の平賀源内は皆さん良くご存じ、
本草学者、発明家、企業家、蘭学者、
アートの分野では、戯作作家、陶芸家、蘭画家(油絵)、
等々の何でもこなす 「お洒落で素敵で粋な方」。
私ども ZIPANGU は、ファッションに関わる部分の
平賀源内を次回から紹介します。 続く。
雨に煙る菖蒲
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