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2007年4月25日 (水)

江戸町火消し、いろは45組 54

 「江戸町火消し」 の立ち上がりは1718年の事です。
 これを組織した方が、
 江戸町奉行の 「大岡越前守忠相」 (1677~1751)。
 徳川吉宗の覚え愛でたく、基本的にはお年寄りの役職
 である 「江戸町奉行」 に40代そこそこで就任しています。
 吉宗が徳川八代将軍に就任した翌年 (1717年) の1月に
 江戸は大火に見舞われます。
 そして、大岡忠相が江戸町奉行になったのが翌月の2月。
 現在の東京都知事、石原慎太郎さんみたいな感じのポスト。
 違いは大岡忠相、江戸町奉行には司法権がありました。
 とかく時代劇では、
 大岡越前守忠相は 「南町奉行所」。
 桜吹雪の遠山の金さんは 「北町奉行所」。
 しかし、
 遠山左衛門尉景元 (1793~1855) は南町奉行も勤めています。

*今週の 「週刊ポスト」 に連載中の井沢元彦氏に依りますと、
 大岡忠相は 「旗本」 と記されていました。
 何やら大岡忠相が 「山田奉行」 の職についている際、
 徳川吉宗と接近遭遇したらしい情報です。
 出典先が明らかにされていませんので不明確ですが、
 興味のお有りの方は、ご自分でお確かめ下さい。 
 因みに 「日本史辞典」 (角川書店) の大岡忠相は、
 『江戸中期の幕臣、山田奉行 ・普請奉行を経て江戸の町奉行
  となり、越前守と称した。』 と説明されています。

 それはさて置き、江戸町火消し、いろは45組。
 1720年頃までに45組が結成された感じです。
 なぜか、いろはには3組足らず?
 粋で鯔背な鳶 (とび) 職の方々を中心として組織されました。
 しかしながら、彼らも実のところ破壊消防。
 彼らにとっては家を壊す事により、お仕事が増える構造。
 尚、詳しい事は、
 「火事と喧嘩は江戸の華 (花)」 でご覧下さい。

 又、あいう45組ではなく、
 「いろは45組」 が何とも乙じゃーございませんか。 続く。

いろはにほへと ちりぬるを  色は匂へど 散りぬるを
わかよたれそ つねならむ  我が世誰ぞ 常ならむ
うゐのおくやま けふこえて  有為の奥山 今日越えて
あさきゆめみし ゑひもせす  浅き夢見じ 酔ひもせず

座れば牡丹
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牡丹

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