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2007年3月23日 (金)

尾形宗謙⇒尾形光琳・乾山 37

 カラーファッション誌の登場まで暫し時間を要しますので、
 舞台を京都に戻します。

 京都呉服商雁金屋と東福門院さんの話を以前しました。
 京都、及び、日本にファンション革命を起こした東福門院さんは、
 1678年に素敵な72年間の生涯の幕を閉じられます。
 ちょいと遅かりしですが、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 この時期の雁金屋さんの当主は尾形宗謙 (1621~1687)。
 雁金屋さんはお店に多大に貢献下さった顧客中のお客様、
 東福門院さんを失ってしまいました。
 とは云え、日本で最高の 「高級着物クチュールブティック」
 でしたので、お店の経営はぐらつきません。
 東福門院さんのお陰で、内部留保はたっぷり。
 京都近在の不動産、大名への貸付金、
 文化的には手に入らない書籍文献、お能 ・茶器道具等々
 手に余る程、それはそれは、たくさんお持ちでいました。

 そして、宗謙のお子さん達、

 尾形藤三郎 (長男で雁金屋さんを継がれます)
 尾形光琳 (1658~1716) 後の絵師
 尾形乾山 (1663~1743) 後の陶芸家

 は、何不自由なく健やかな、ボンボン育ちです。
 彼らは、幼少の頃から、
 日本文化素養の塾へ万遍なく通い (通わされ)、
 感性を磨く時間をお父 ・お母さんから与えられたと思います。
 長男坊の藤三郎は店舗経営継承者ですのでそれなりにシャキっ
 としていた感じですが、後のお二人はお勉強と遊びの両立。
 1678年時点では、光琳 21歳 乾山 16歳 大の大人に成長済み。
 そんな尾形家でした。
 (尾形乾山は遊びより、書を読む方がお好きだったとか。)

 しかし、時は流れてドンブラコ。
 彼らの父の宗謙は、資産持ちでしたので本業以外の
 金融業 (大名貸し) にも大幅に手をだしていました。
 今の消費者金融の感じで、借り手が藩主で有る点が違うだけ。
 そして、よくある? 「貸し倒れ」 を食らってしまいます。
 宗謙は必死に立て直しを計りますが、本業の高級着物の販売も
 東福門院さん感じの大口顧客が
 不在ですので思う様に行きません。
 そんな 「親父の苦労」 も知らず、
 特に光琳はお遊びに夢中で遊び惚 (ほう) けていらしたそうです。
 宗謙は1689年に亡くなりますが、その頃はお店がガタガタ模様。
 父の死後は、それでも莫大な遺産がありましたので、
 残された皆さんは生活に支障を来す心配はありませんでした。
 後の押しも押されぬ絵師、尾形光琳は、
 浮き世学習 ・勉学に精を出し、楽しい毎日だった感じです。 続く。

綻ぶ山桜
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綻ぶ山桜

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