素敵な東福門院の優しさ 34
素敵な東福門院さんであった事は
もう一つの事実でも明らかなのです。
彼女が嫁ぐ以前に、
後水尾帝がお付き合いされていた女性
が存在しました。 その方は
四辻(藤原)与津子さん (?~1638) 藤原閑院流の末裔
お二人には、
賀茂宮 (1618~1622) 5歳で夭折?
梅宮 (1619~1697) 後の文智女王 夫は鷹司教平
のお子さんがいました。
徳川和子さんが後水尾帝と結婚される際、
四辻 (藤原) 与津子さんは
暫しの間、宮中より暇乞いを強いられています。
この措置は、1612年に後水尾帝への徳川血脈導入の申し入れ、
1614年に後水尾帝は受諾になり、マスコミに公表。
その後に、後水尾帝は四辻 (藤原) 与津子とのお付き合い。
1618年には男子誕生、1619年には女子誕生。
これに対して、1619年徳川秀忠は京都に出かけブラフ (bluff)を。
秀忠は与津子さんの兄弟らを肩たたき (地方飛ばし等)。
見かねた後水尾帝は幕府へ 「譲位する。」 との恫喝。
これには困る幕府は、
(後水尾帝が天皇でなければ和子さんはただの女性に)
彼の弟、近衛信尋と藤堂高虎に説得工作を依頼。
後水尾帝と近衛信尋の母、
近衛前久のお嬢さん中和門院の後水尾帝に対する骨折りもあり、
後水尾帝は与津子さんに少しの間、禁裏を去って貰う事にし、
1620年に無事に?、徳川和子さんが入内すると云う流れです。
文智女王にとって、和子さんは半ば母の敵?
しかしながら、お洒落で素敵な東福門院さんの
あの世への旅立ち、この世での最後を見取ったのは、
文智女王だったと云う文書があるとの事ですので、
お二人の女性同士は、
その様な素敵な心模様になっていた事になります。 続く。
綻ぶ桜
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