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2007年2月23日 (金)

東福門院は宮中に着物を 23

 京都の宮中ファッションは
 江戸時代でも 「十二単」 が基本でした。
 和子さん (後の東福門院) は、
 はるばるお江戸日本橋から遠い遠い京都へ お嫁入り です。
 お江戸ファッションは
 勿論、着物ファッションです。

 儀式の結婚式は厳かに十二単で執り行われたと思われますが、
 お色直しは着物ファッションで ってな感じではないかと???

 ってな訳には行かなかったんでしょうネ? (1620年)

 和子さん (後の東福門院) の入内に際し、
 江戸幕府京都所司代の官僚達は前もって、
 後水尾天皇お付き合いの女性達に言い含め、
 彼女らに整理整頓処理をさせていましたので、
 (時の厚生大臣発言と全く違いますので悪しからず。)
 後水尾帝と和子さん (後の東福門院) との
 スイートな空間作りは万全でした。 
 (和子お嬢さんはこの事に関しご存じなかったかも知れません。)

 素敵なお二人には、

興子内親王 (1623~1696) 74歳  明正天皇
女二宮 (1625~1651) 27歳  近衛尚嗣の奥様 近衛基熙母
高仁親王 (1626~1628) 3歳  
皇子 (1628) 1歳  
顕子内親王 (1629~1675) 47歳  
賀子内親王 (1632~1696) 65歳  九条兼晴の奥様 二条綱平
皇女 (1633~1634) 2歳  

 以上の方々がお生まれになりますが、この禁裏の空間でさえ
 7名の命を授かりますが、3名の方々が夭折されている現実です。

 江戸幕府から和子さん (後の東福門院) へのキャリア手当は
 驚く無かれ、年間10万石を越えていたそうです。
 (その時の皇室御領の年間収入は1万石でした。)

 以前、徳川和子=東福門院さんは 「お嬢さん中のお嬢さん」 と
 記しました。 彼女はこの莫大な金額を

 「ご自分の為だけではなく、惜しげもなく、心から
  江戸からのお世話護衛女性、及び、宮中官僚女性に
  女性なら誰しも着たい綺麗な小袖着物をプレゼントしたのです。」

 勢い宮中でのカジュアルウェアー (普段着) は
 小袖着物ファッションに変貌を遂げます。
 (特別な儀式の際はその限りに非ず十二単です。)
 女性のファッションに対する心変わりは何時の世も同(おんな)じ。
 守旧派コンサバティブ (conservative) 男性ファションと、
 全く違う所なのです。
 (この部分は、あくまでもWeb公開 小西家資料 よりの類推。)
                                                             続く。

春の梅
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春の梅

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