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2007年2月21日 (水)

再度、春日局と徳川和子 22

 そこで、家康は老体にむち打ち励みます?
 そしてお福さん (後の春日局) との愛の結晶が、
 「竹千代 = 後の徳川家光」。

 更に、「和子」 さんと行けば良いのですが、
 和子さん迄は、家康のお子さんとは考えにくい・・・。
 又、お福さん (後の春日局) が身重では、
 竹千代 = 家光のお世話教育係が疎かに?
 しかし、子育ては、そうとも限らず、ここの所は藪の中。
 新たな史実を今か今かと待ち望んでいます。

 一方、勧修寺 (藤原) 晴子さん (新上東門院) を説き伏せた
 江戸幕府側は1607年の 「猪熊事件」 を材料に
 更に、京都朝廷にプレッシャーをかけます。
 その事件がきっかけで後陽成帝が息子の後水尾天皇に践祚。
 そして、最後の楔が1615年 「禁中並公家諸法度」 の強要。

 あまたの攻防を経過後 取り巻きの方々の努力を以て、1620年 
 後水尾天皇と徳川和子さんは晴れて結婚に漕ぎ尽きます。
 追幻想世界のお二人は、とても仲睦まじい時を過ごされます。
 しかしながら、やがて、数ある幕府の攻勢に後水尾帝は
  つむじを曲げ、叛旗を翻し、抵抗を試みます。
 その結果、1629年 「紫衣事件」 が起こり
 幕府と後水尾帝の間がとてもぎくしゃくします。

 そこでお福さん (後の春日局) は、家光の妹、和子さんを気遣い、
 京都へ上り、後水尾天皇へのご機嫌伺い拝謁を企図します。
 (もう一つの裏使命は明正女帝への践祚工作。)

 何にも官位がない彼女は三条西実条の妹身分で昇殿し、
 和子さんに逢い、和子さんの取りなしで基本的には会えない
 後水尾天皇に拝謁が叶います。
 その際の賜り物が 「春日局」 号。

 以後、彼女は春日局様にヘンシン (変身 ・変心)。 
 そして、この年、後水尾帝は明正女帝に譲位、
 徳川和子さんは 「東福門院」 さんに。          続く。

*猪熊事件は猪熊教利 (のりとし) 及び朝廷官僚たちが、
  帝お世話係の女性官僚 (女官) に
  ちょかいを出してしまった事件。
  特に猪熊がお付き合いした方が
  何と、帝にとって大のお気に入り女性だった事から、
  後陽成帝は怒り心頭で、烈火の如く激怒なさったとか。
 
*紫衣事件の紫衣は偉いお坊さんが着用する事ができる
  紫色の法衣 (袈裟) 僧の世界でも 「紫色」 がナンバーワンです。
  1613年に 徳川幕府は朝廷に申し入れをしていました。
  「勅許紫衣法度」 と云う代物です。
  その内容は朝廷が、大徳寺・妙心寺 ・知恩院 ・知恩寺 ・浄花院
  ・泉涌寺 ・粟生光明寺 ・黒谷金戒寺の住職さんをお決めになる
  際は事前に幕府までお知らせ下さい。確認後追って沙汰します。
  ってな感じの法律。 その様な決め事が存在したにもかかわらず、
  後水尾帝が無視し?、1627年の任命 (勅許) してしまい、
  幕府は これに抗議、朝廷は押し通そうとするも、
  大徳寺住職の沢庵和尚ら が幕府に反抗するや、
  1629年幕府は沢庵和尚らを流罪にした事件。
当然、後水尾帝はご機嫌を損ねた事と思われます。

☆差異表示で紫色が表意記号で最上位のカラーとされた歴史は、
  「高貴(あて)なる紫色」 及び 「紫色と赤色は仲良し色に」
                         をご覧下さい。

春の梅
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春の梅

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