近衛前久と勧修寺晴子 21
前回、お福さん (春日局) が故有ってと記しましたが、
本当に故が有ったのだと考えます。
3代将軍徳川家光の母はお福さんで父は家康と考えると、
とても 「スンナリ」 します。 辻褄が合ってしまうのです。
この事は、奇しくも本能寺で織田信長の野望を藻くずにした
実働部隊の明智光秀のみが矢面に立たされている
「本能寺の変」 まで遡ります。
本能寺の変の企画は皇室の藩屏、近衛前久 (1536~1612)。
(2007年1月29日に近衛前久は、ややメジャーになりました。)
企画参画者は、武家伝奏の勧修寺晴豊 (1544~1602) と
彼の妹の勧修寺(藤原)晴子 (1553~1620) さん
及び、彼、彼女らのシンパシー軍団の皆さんです。
勧修寺(藤原)晴子は、誠仁 (さねひと) 親王の奥様で、
後陽成天皇 (1571~1617) の母です。
誠仁親王 (1552~1586) の父は正親町天皇 (1517~1593)
誠仁親王が35歳で亡くなった為、彼の息子、
後陽成帝が天皇位を継ぎました。
本能寺での信長暗殺 決行情報について、
豊臣秀吉 ・徳川家康らの皆さんは、近衛前久、勧修寺晴豊らを
通して、既に小耳に挟んでおり、彼らは、近衛前久らに懐柔され、
情報の多少は別として、織り込み済みであったと考えます。
故に、秀吉亡き後、
家康の朝廷対策として、
征夷大将軍 (家康) と
信長暗殺実働部隊№2の斉藤利三の娘(お福)さんとの
間にできたお嬢さんであったなら、そのお嬢さんを
「後水尾天皇の奥様にする」 と云う話の展開には、
(秀忠と信長の姪っ子のお江さんとのお嬢さんではなく)
さすがの勧修寺 (藤原) 晴子さん (新上東門院) も、
抗しきれなかったのではないかと・・・・・。 続く。
春の梅
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