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2007年2月19日 (月)

近衛前久と勧修寺晴子 21

 前回、お福さん (春日局) が故有ってと記しましたが、
 本当に故が有ったのだと考えます。

 3代将軍徳川家光の母はお福さんで父は家康と考えると、
 とても 「スンナリ」 します。 辻褄が合ってしまうのです。

 この事は、奇しくも本能寺で織田信長の野望を藻くずにした
 実働部隊の明智光秀のみが矢面に立たされている
 「本能寺の変」 まで遡ります。

 本能寺の変の企画は皇室の藩屏、近衛前久  (1536~1612)
 (2007年1月29日に近衛前久は、ややメジャーになりました。)
 企画参画者は、武家伝奏の勧修寺晴豊 (1544~1602) と
 彼の妹の勧修寺(藤原)晴子 (1553~1620) さん
 及び、彼、彼女らのシンパシー軍団の皆さんです。

 勧修寺(藤原)晴子は、誠仁 (さねひと) 親王の奥様で、
 後陽成天皇 (1571~1617) の母です。
 誠仁親王   (1552~1586) の父は正親町天皇 (1517~1593)
 誠仁親王が35歳で亡くなった為、彼の息子、
 後陽成帝が天皇位を継ぎました。

 本能寺での信長暗殺 決行情報について、
 豊臣秀吉 ・徳川家康らの皆さんは、近衛前久、勧修寺晴豊らを
 通して、既に小耳に挟んでおり、彼らは、近衛前久らに懐柔され、
 情報の多少は別として、織り込み済みであったと考えます。

 故に、秀吉亡き後、
 家康の朝廷対策として、
 征夷大将軍 (家康) と
 信長暗殺実働部隊№2の斉藤利三の娘(お福)さんとの
 間にできたお嬢さんであったなら、そのお嬢さんを
 「後水尾天皇の奥様にする」 と云う話の展開には、
 (秀忠と信長の姪っ子のお江さんとのお嬢さんではなく)
 さすがの勧修寺 (藤原) 晴子さん (新上東門院) も、
 抗しきれなかったのではないかと・・・・・。          続く。

春の梅
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春の梅

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