そして、「生け花」 池坊 61
2007年 年頭に当たり、
明けまして、おめでとうございます。
早速ですが、昨年の続きのお話しです。
昔はわび (侘び)・さび (寂び)・ゆうげん (幽玄)
今は、WABI (和美)・SABI (差美)・MOE (萌恵) に。
今日は、お正月の3日ですので、ちょいと 「みやび」 に。
『枕草子』 清少納言さんの中から。
☆村上の前帝の御時に の段
「雪のいみじう降りたりけるを、様器に盛らせ給ひて、
梅の花を 挿して、月のいと明きに、
『これに歌よめ。いかが言ふべき。』 と、
兵衛の蔵人に賜せたりければ、
『雪月花の時。』 と奏したりけるこそ、
いみじうめでさせ給ひけれ。
『歌などよむは世の常なり。
かくをりにあひたることなむ言ひがたき。』 とぞ、仰せられける。」
☆三月三日は の段
「うらうらとのどかに照りたる。桃の花のいまさきはじむる。
柳などをかしきこそさらなれ、それもまだまゆにこもりたるは
をかし。ひろごりたるはうたてぞみゆる。
おもしろくさきたる桜をながく折りて、
おほきなる瓶にさしたる こそ
をかしけれ。桜の直衣に出袿して、まらうどにもあれ、御せうとの
君たちにても、そこちかくいて物などうちいひたる、いとをかし。」
☆清涼殿の丑寅の隅 の段
「北の隔てなる御障子には、荒海の絵、生きたるものどもの
おそろしげなる、手長足長をぞかきたる。上の御局の戸
おしあけたれば、つねに目に見ゆるを、にくみなどして笑ふ。
勾欄のもとに青き瓶の大きなるすえて、
桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、
いと多くさしたれば、勾欄の外までこぼれ咲きたる、
昼つ方、大納言殿、桜の直衣のすこしなよらかなるに、
濃き紫の固紋指貫、白き御衣ども、
うへに濃き綾のいとあざやかなるを出だしてまいり給へるに、
うへのこなたにおはしませば、
戸口の前なるほそき板敷にい給ひて、ものなど奏し給ふ。」
等々、彼女の描写には、数多の自然背景草木が登場します。
そして 「生け花」。
既に彼女の時代でさえ、雪 ・花器に花木を挿しています。
そこ彼処 (かしこ) にある花木の枝を折り、花器などに入れ、
愛でていた様子が伺えます。
それも又かなり大きいのです。
尺の単位を直近の1尺=30.3㎝としても、約1.5mの桜の枝を
オブジェ (仏 objet) にしている事実。
昨今の 前衛フラワーアーティスト の方々も ビックリか?
花器を彼女は 「瓶」 と表現しています。
どの様な瓶だったのか興味がありますが知る由もありません。
受けの花器もかなりビッグな物であったに違いありません。
お洒落なのは、この時代の男性の方がお髪 (ぐし) に
花木を挿しています。「藤原道長様?」 をご覧下さい。
☆草は の段
「前略 蓮 (はちす) 葉、よろづの草よりもすぐれてめでたし。
妙法蓮華のたとひにも、花は仏に奉り、実は数珠につらぬき、
念仏して往生極楽の縁とすればよ。また、花なき頃、
みどりなる池の水に紅に咲きたるも、いとをかし。
翠翁紅とも詩に作りたるにこそ。 後略」
こちらにある様に、仏様に花を手向 (たむ) ける現象の方が
「たとひ」 ですから、より以前からあった感じです。
故に、「生け花」 の原初は、仏壇に供える仏花になります。
それを証明するのが、「華道(花道) の家元」 の 「池坊」。
頂法寺 (天台宗)、通称、六角堂と云われるお寺さんの
偉い住職 (執行) のお住まいが池の畔 (ほとり) にあり、
いけのぼう になったそうです。
その住職さんが六角堂の仏前にお花を供えていたのですって。
たぶんお花をふんだんに使用し、豪華絢爛だったやも。
昨年紹介しました、足利義満の時代には義満のお住まいで、
「七夕法楽花会」 と云うイベントが開催されていたそうです。
要は飲めや歌えやの大宴会。
その会場 (室町邸 ・北山邸) の
室内インテリアの一つとして、花を生けた感じです。
足利義教 ・義政の時代では、
池坊専慶や山科家の家司 (家の事務担当者) 大沢久守、
同朋衆(どうぼうしゅう、将軍や大名の側で雑事係のお方。)の
立阿弥(りゅうあみ)らが
フラワーアーティストとして花を飾っていたようです。
やがて、応仁 ・文明の乱により、質素 ・倹約 ・辛抱の時代へ。
豪華絢爛の花の時代から、シンプルな 「一輪挿しの時代」 へ。
続く。
本年も宜しく御願い申し上げ奉りー ZIPANGUスタッフ一同
| 固定リンク
コメント