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2006年12月11日 (月)

足利義満はラッキーx2 51

 1352年室町幕府内の内部闘争が決着した年です。(観応の擾乱)
 歴史教科書では、「☆☆の乱」・「★★の変」が多い中、
 これに関しては 「擾乱 (じょうらん)」 となっています。
 組んず解れつ、昨日の友は今日は敵、明日はどうなるで、
 ぐじょぐじょの呈を表現したかったのかしら
 室町幕府トップの抗争は漸く雌雄決しますが、
 ここで、北側にとって、とっても困った事が生じていたのです。
 なな何と、京都に上皇 (地天の君) が不在でした。

不在の方々は、
 光厳上皇 (在位1331~1333) (1313~1364)
 光明上皇 (在位1336~1348) (1321~1380)
 崇光上皇 (在位1348~1351) (1334~1398) 光厳帝の息子
一方南方は、
 後村上天皇 (在位1339~1368) (1328~1368)

 北側には帝が不在の状態です。
 この時代 (院政時代より) では、上皇 (地天の君) が
 「天皇」を指名 (伝国の宣 ・譲国の詔) するシステムでした。
 天皇が不在ですと、官職(朝廷官僚)、征夷大将軍職(室町幕府)
 を賜れません。 <位階職 (寺社組織) も>
 ここで一肌脱いだ (脱がされた) 方が、後伏見天皇の奥様、
 藤原 (西園寺) 寧子(やすこ)さん (1292~1357) 広義門院。
 後伏見天皇 (在位1298~1301)  (1288~1336) と
 寧子さんとの息子さんが光厳 ・光明天皇。
 京都在住室町幕府のトップは足利高詮。
 足利尊氏は鎌倉出張の最中(さなか)、
 足利高詮は京極高氏を通じて、
 武家伝奉の勧修寺経顕 (つねあき)  (1298~1373) 経由、
 寧子(やすこ)さんに上皇 (地天の君) への就任を口説きます。
 足利高詮が京都にいながらも、愛しい息子二人共、
 囚われの身にさせられてしまった高詮への失意と憎さ?と
 高齢 (61歳 やや目がかすみ気味) 等の理由で拒んでいた
 広義門院を 「やっとの事」 で説き伏せます。
 これにて、お寺で修行中だった、
 後光厳天皇 (在位1352~1371)  (1338~1374) が誕生。
 北側に取りましては、愛でたし、目出度しになった訳です。
*勧修寺 (藤原) 経顕は勧修寺家の祖。
 彼の以降、末裔の皆さんは活躍なさいます。  続く。

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