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2006年12月27日 (水)

応仁・文明の乱⇒侘び・寂び 59

☆ 偉いさんの初物尽くし。

時節  お名前  役 職  備  考
760年 藤原仲麻呂 太政大臣 光明子は叔母様
765年 道鏡 太政大臣禅師
797年 坂上田村麻呂 征夷大将軍 持節 ・征東大使除く
810年 藤原冬嗣 蔵人
857年 藤原良房 太政大臣 人臣で初
871年 藤原良房 准三后 准后とも
904年 宇多天皇 太政法皇  
1167年 平清盛 太政大臣 武臣で初

 そして足利義満は、
 征夷大将軍 太政大臣 准三后をゲットしていました。
 太政法皇は朝廷から下賜されますが、(1408年5月6日没後即)
 息子の義持と管領、斯波義将らは協議の結果辞退します。
 そこで義満の初物は、
 以前、紅葉の時期に京のお寺を紹介しました
 その中の、仁和寺 (それ迄は皇族の方々のみが入室) に、
 息子の法尊(1397~1418) が門跡なります。(但し義満他界後)
 義満は生存中に廷臣・僧職の官位任命権 (実質・名目共に) を
 手に入れていました。
 更に、天台座主を送り込む山門三門跡 (皇族の方々のみ) の

 青蓮院に、 尊満 (1381~1403)が入室、法性寺座主。
  義円 が入室、天台座主。還俗して7代将軍義教。
 三千院に、 浄文 が入室、還俗して義嗣に。
  義承 (1406~1467)が入室、天台座主。義満没後。
 妙法院に、 義昭 (?~1441)が入室、大覚寺門跡、東寺長者。

 の感じで、義満の息子達は未だ勝手無かった職につきます。
 各々のお寺は 「禅寺以外の門跡寺院」 で確認下さい。

*足利義嗣 (1394~1418) は、1408年2月還俗、その27日に、
   義満は息子と共に参内。
    4月25日に、義嗣は内裏元服を。

 その三日後、足利義満は急に体調を壊し、
 そして、そして、そして、5月6日にあの世に、旅立つのです。

 足利義満が 「服・衣装」 に触れている箇所が有ります。
 1405年義満が内裏に出向く際のお供の廷臣達の衣装について
 『廷臣の装束までに干渉し、「旧例 ・老若を論ぜず」
  染(め)装束の着用を強制した。』 (室町の王権 今谷明著)
 の様に、アバンギャルド (斬新) な発想をしていました。
 たぶん、義満のみが金糸 ・銀糸使いの唐織物のお召し物で、
 廷臣達は彼を引き立てる為の地味目なプリント衣装だったと。
 もう一つ、1407年明の使者が来日の際、北山邸 (後の金閣寺)
 でのパーティ衣装。
 何と、義満はチャイナ服で接待されたとの事。
 彼は、お茶目でお洒落な感覚を持ち合わせていた感じです。
 これなら並み居る女性におもてになっても不思議では・・・・・。

 義満が亡くなった後 息子の義持らは呪縛から解き放たれた様に、
 義満政策を反故にしていきます。
 武家のみでなく義満に阿諛追従していた朝廷官僚達も
 打って変わって、踵 (きびす) を返します。
 これも、良く有る、世の中の常。
 それでも、義持政権は20年程大過なく過ごします。
 しかし、やがて綻びが。 
 1428年正月、義持は他界します。
 この時代 (とき) の天皇は後小松帝の息子、
 称光天皇 (在位1412~1428) (1401~1428)。
 彼は体が弱かったらしく、この年7月に若干29歳で逝去。
 急遽、後小松帝は伏見宮、
 貞成 (さだふさ) 親王 (1372~1456)の息子さんを猶子とし、
 彼が後花園天皇 (在位1428~1464) (1419~1470) に。
 又、この年の9月、「正長の土一揆」。
 初めて民が大挙して立ち上がった示威行動として有名な事件。
 畿内周辺の各地でも 「反乱」 が起き、
 勢い、風雲急を告げる趣きになり、ドンパチが続き、仕上げは、
 1467年に始まる、応仁・文明の乱に。
 12年間に渡る諍いは、京の町を悉く灰にします。
 これにて 「わび (侘び)・さび (寂び) 文化」
 と云われる土壌が完璧に形成されます。        続く。

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