後円融上皇による反撃 56
翌年1383年正月29日は
後円融上皇の父、後光厳天皇の法事でした。
今谷明の 「室町の王権」 に依りますと、
この内裏での法要に参加したのはお坊さんのみで、
公卿 ・殿上人 (朝廷高級官僚) は義満の 「睨み」 に
恐れおののき、誰一人、参列されなかったとの事です。
この事態に陥り、さすがの後円融上皇も怒り心頭。
運悪く、奥様の厳子さんが昨年の暮れに里帰り、無事出産され、
この年の2月1日に内裏にお帰りになる日に当たっていました。
当日、後円融上皇は腹の虫の悪戯か、
久方ぶりにお帰りになった愛しの厳子さんを
激しく、折檻なさったそうです。
これも巷でよくあるお話し、「愛 (いと) しさ余って憎さ百倍」。
このイジメの構造は、イジメの連鎖。
苛 (いじ) められた方が愛しい人であれ
お近くにいる力の弱い方を
虐 (いじ) める行為。
如何ともし難い人の業 (わざ)。
昔から対処策としての宗教の役割、
西洋では、「右の頬をぶたれたら、左の頬を出せ。」
東洋では、「(弱者) 人間、皆、辛抱だ。」 だ何て
『西洋は論理破綻、東洋は何時までもできません。』
と云う事に落ち着きませんかしらん?
故に、この反撃はイジメ相手に対する闘いになりません。 続く。
| 固定リンク
コメント