足利義満はとてもラッキー 50
義満は1358年生まれでした。
世の中は未だ南北問題続行中。
彼の幼い時点では南側からの京都攻撃を回避する為、(1361年)
赤松則祐 (1314~1371) の拠点、播磨国で保護されています。
赤松則祐は赤松則村 (円心) (1314~1371) の息子。
赤松則村 (円心) は初期は南側、1335年より北側へ。
北側へ方針転換後は足利尊氏より播磨国守護を安堵され、
息子の則祐は備前国守護になります。
赤松則祐は足利義詮らを補佐し室町幕府をエイド( aid )。
足利義満は京都が安定してから入京します。
彼の母は、「足利義満 一時の華やかさ」 で紹介しました。
父の義詮が1367年に亡くなり、翌1368年には征夷大将軍に。
この時、若干11歳 (数え)。
1367年より初ばさら大名の佐々木道誉、赤松則祐らの推挙により
執事 (後の管領) になっていた
細川頼之 (1329~1392) らに補佐されます。
細川頼之は三河国細川郷 (現在の愛知県岡崎市) の生まれ。
元々、足利家と細川家は一族同士、
足利家の祖、源 (足利) 義康 (1127~1157) の末裔達。
源 (足利) 義康は源義家の孫。
*「初ばさら (婆沙羅) 大名」 の佐々木道誉 (どうよ)は、
京極高氏 (1296~1373)。
南北朝時代の 「流行語」 と云われている「婆娑羅 ・時勢粧」。
広辞苑では、「派手にみえを張ること。」 「遠慮なく振舞うこと。」
たぶん既存体制にアンチ (anti) を
唱えられた固定概念破りの方だったと思われます。
ファッション業界ではアバンギャルド (仏 avant-garde)。
私どもはファッションの原点であると思っていますが・・・。
因みに世の常ですが、
室町幕府は 「建武式目」(1336年)で 「婆娑羅禁止」 でした。
彼の祖は宇多源氏。後に近江国守護を勤めた、
佐々木信綱 (1181~1242) はご先祖。
信綱は、承久の変の際に、北条泰時 (1183~1242) 側に与す。
信綱の末裔は京極・尼子氏、
又、お市さんのお嬢さんで、
淀君の妹、お初さんが奥様で有名な京極高次 (1563~1609) ら。
続く。
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