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2006年11月 5日 (日)

藤原範子と兼子(卿局) 33

 源 (藤原) 在子さんの母について。
 藤原範子と兼子さんの父は藤原 (高倉) 範兼 (1107~1165)。
 彼が亡くなった後に、範兼の弟、
 藤原(高倉) 範季(のりすえ)(1130~1205) が養父になります。
 範季の奥さんは平教盛のお嬢さん、平教子。
 と云う事は、藤原 (高倉) 範季と源通親は義兄弟。
 範季と平教子との間にできたお嬢さんが、後の修明門院
 藤原(高倉) 重子 (1182~1264) さんで後鳥羽帝の奥様になり、
 お二人には、順徳天皇 (在位 1210~1221)(1197~1242) が。
 土御門帝の次に帝になり 「八雲御抄」 「禁秘抄」 等を。
 更に歴史のドラマ (drama) は展開します。
 源頼朝が兄で、源義経が弟である、
 源範頼 (のりより)(1153?~1193?)
 蒲御厨 (静岡県浜松市) で育ったので、通称、蒲冠者。
 そして源範頼の養い親が藤原 (高倉) 範季になるとの事です。
 とてもドラマチック (dramatic) と思いませんか?
 高倉(藤原)家は1159年に亡くなった信西 (藤原通憲) と同じく、
 奈良時代、藤原四兄弟の長男藤原武智麻呂、南家の末裔です。
 藤原 (高倉) 範子さんは、お嬢さんの息子が帝になった事実を
 見届け、1200年に亡くなりますが、
 妹の兼子さんは、典侍になり、後鳥羽上皇の側近として、
 北条政子との交渉を行うなどご活躍されました。
 彼女らの養父で義理兄の藤原 (高倉) 範季は、
 平氏、源氏、朝廷、九条家(範季は九条兼実家の家司も)と
 全方位外交の確たる物で歴史教科書には登場し難いですが、
 なかなかのお人をではございませんか?  続く。

*典侍(すけ・てんじ・ないしのすけ) は宮中女性キャリアーの№2
 尚侍(ないしのかみ)→典侍→掌侍(ないしのじょう)→女嬬の順。

 
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色の変化をお届けしています。
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