「禅宗」 「ZEN」 栄西 の触り 22
達磨さんは、にらめっこ。
それと、選挙に勝利した際の黒目入れ。
先ずは、「禅」 を日本に導入された栄西。
栄西 (1141~1215)
若干14歳 (数え) で比叡山延暦寺のお坊さんになり(得度)、
(現代から察すると早く感じるかも知れませんが、この当時では
特段早い時期の出家ではありません。
「功名が辻」 で 「拾い」 は9歳で出家、生まれて即の方も。)
1168年、28歳の時南宋に留学したとの事ですが、
一体、誰に連れていってもらったのでしょうか?
平清盛が宋との私貿易で富を得ていた話がありますので
清盛の下で日本と宋を行き来してた方にお願いしたのか不明です
がとにもかくにも、1187年にも栄西は宋に出かけていますので、
どちら様かに、コネクション (connection) があった筈です。
1191年に彼の地の偉いさんから臨済宗を嗣ぐお墨付きを貰い、
日本へ帰ります。
帰国後は、世の常の、既存宗教勢力からのいじめにあい、
京より遙か遠い、九州の筑前、肥後国で布教を行い、
1195年に博多に日本初の禅道場、聖福寺を建立していますので、
渡航コネは、博多密貿易商人だったかも知れません。
栄西は、中央、京の都でも布教を試みますが、儘 (まま) ならず
新興権力集団になった鎌倉幕府に取り入ります。
新都鎌倉に足を運び、
北条政子 (1157~1225)、源頼家 (1182~1204)らの庇護の下、
(鎌倉幕府側も新文化 (宗教) の取り入れに打って付け。)
1202年京都に建仁寺を建立するまでに。
けんにん‐じ 【建仁寺】 (広辞苑)
京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の大本山。山号は東山。
建仁二年 (一二○二) 栄西の創建。
当初は天台 ・真言 ・禅の兼学寺院。
室町時代は京都五山の一で五山文学の中心。
戦国時代末期に恵瓊が復興。 続く。
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