藤原(高倉)範子と源通親 25
源通親はとても才長け、女性にも如才なく、
その当時の女性なら、気になりほっとけない男性と思われます。
藤原 (高倉) 範子さんの元の夫は法勝寺執行 能円。
法勝寺は京都市左京区岡崎あった寺。
白河天皇建立六勝寺の一つ。
執行 (しゅぎょう) は寺事務仕事のトップの方。
1179年、鹿ヶ谷の謀議でメジャーな俊寛も法勝寺執行でした。
能円の母は、藤原家範のお嬢さんで、彼女の
夫、平時信との間に 平時子 (1126~1185) 清盛の奥様
平時忠 (1127~1189) 平大納言
次夫、藤原顕憲との間に 能円 (1140~1199)
達をこの世に送り出しています。
能円は1183年7月、平家都落ちの際に単身で京を去ります。
能円と藤原(高倉)範子さん (?~1200) との間には、
後に後鳥羽天皇 (在位 1183~1198)(1180~1239) の奥様に
なり土御門天皇 (在位 1198~1210)(1195~1231) を
誕生させた、在子 (1171~1257) お嬢さんをもうけています。
能円都落ち後、藤原範子さんは源通親と懇 (ねんご) ろになり、
彼の奥様に。在子お嬢さんは通親の養女と云う事に相成ります。
彼女は、母の名を取れば、藤原在子で養父の名なら源在子に。
世の中では、この時代実父が僧侶で入内された女性が存在
しなかったので源在子と彼女は云われていますが響きは
藤原在子の方が宜しいのではないかと考えています。
奈良の都では、道鏡さんと称徳女帝とはとても中が宜しかった筈。
「前例」 に拘ると明るい未来が開かないのでは・・・。 続く。
| 固定リンク
コメント